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ティム
2024/08/07 20:32

京を凌ぐ平泉の栄華 ②

清衡は清原家の相続争いに巻き込まれた後三年の戦いで、唯一生き残ることとなります。しかしながら異父弟に妻子を殺害されるなど、悲惨で壮絶なものでした。

非戦のあとの平和への決意から、平泉に中尊寺を建立します。1124年に金色堂、1126年には主要な堂塔が完成します。平泉一帯で豊富に採れた金に加え、京から優れた技術者を呼んだこともあり、最高水準のものが完成されます。

また京へは名馬を送り朝廷とは良好な関係を築きます。

戦争のない理想郷を造りたいという趣旨の願文(中尊寺建立供養願文)を読み上げたと伝えられています。

70歳を超えて亡くなった清衡の跡を継いだのは、次男の基衡です。
基衡は、清衡が築いた仏教都市をさらに発展させました。代表的なのは毛越寺(もうつじ)の建立で、これは中尊寺に匹敵する立派な建築となります。

毛越寺本尊の薬師如来像の制作は、京都の仏師に莫大な謝礼を支払って依頼しました。3年ほど時間はかかりましたが、立派な像が完成します。
噂を聞きつけて見にきた鳥羽上皇(とばじょうこう)は、これほどのものを京から出してはならないと命じるのですが、幾度かの交渉でようやく平泉に届くのです。

基衡は赴任してきた国司との融和をはかるため、彼の娘を嫡男の秀衡に嫁がせます。基衡の死後は、秀衡が3代目として跡を継ぎます。妻の実家の縁と財力を生かし、秀衡は中央貴族へ金や馬を献上したり寺社へ寄進するのです。

その結果、陸奥国に置かれた軍政府の長官に任命されます。先代の清衡と基衡は押領使(おうりょうし)であり、さほど高い官職ではなく、奥州の実質的な支配者に留まっていたのです。秀衡は、名実ともに奥州の支配者と認められたのです。秀衡の全盛期には、祖父や父と同じく都市計画を進め、無量光院(むりょうこういん)を建立しました。
無量光院は宇治の平等院鳳凰堂を模して造られ、その規模は平等院よりも少し大きかったとされます。

秀衡は平泉の平和維持に尽力します。京や他の地域で合戦があっても、中立を貫きました。

 

「今日を凌ぐ平泉の栄華 ③」へつづく

 

 

旅の準備してる。

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2 件の返信 (新着順)
まるまる
2024/08/08 00:05

清衡が平泉を開いたことには、そういう流れがあったのですね。勉強になります💡千年近く前に京の仏教文化を遠く離れた平泉に根付かせるための苦労は大変だったことでしょう。
平和な国づくりを目指したのに、わずか四代で滅亡してしまったのは残念でした。

MNnikotama
2024/08/07 23:24

ティムちゃんにお似合いのバッグで
ご用意👏👏👏かわいい🤗

平泉が京と深いお繋がりがあったなんて…👏👏🙏
素晴らしい建造物✨✨としてしか
見て来れなかった中尊寺、毛越寺…
頂き物の秀衡塗のお椀の素敵にも
重大な訳があったのですね…🙇‍♀️🙏💦