2024/03/11 03:19
3・11💧
あれから…13年…
お哀しみに遭遇なさった皆様のお辛さは…
何年の月日が過ぎようとも忘れる事の出来ない
お苦しみとお察し致し心より
ご心痛お慰み申し上げます🙏
ほんとうに…自然の災害は思いもつかぬ怖さで
突然に襲ってくるのですよね…
震源地よりこんなに遠く離れている東京でも…
忘れる事もできない、あのような揺れで…
ついに東京震源地⁈😱と感じたくらい…
皆様は…どちらにて…揺れをご経験でいらしたのでしょう…13年前にタマタカで揺れをご経験の方は
いらっしゃいますでしょうか…
我家では忘れもしないあの日、長女が妊娠5ヶ月目の検診の日で女の子と教えて頂いた日でした。
娘はルンルン気分で検診の帰りタマタカでは
ないのですが、最寄りのデパートに寄り子供服
売り場でかわいい💕女の子用のお洋服などを
探しながらゆっくりしていた矢先にグラグラと
デパートはさぁ〜たいへん…皆様のキャ〜と言う
お声と慌てるお姿…とにかく外へと誘導されたそうですが…子供服売り場は当時どちらのデパートでも上の方の階…そこから大きなお腹を抱えて階段を
やっとの思いで降りたと…
そのお腹の子が今週小学校卒業式✨
13年の月日を感慨深く感じます
ママのお腹の中で揺れを経験しているのよと伝え
これから巣立って行く道のりに何事の怖い事に
巡り会わないように祈りたいと思います
♪花は咲く♪お苦しみの皆様の励ましのお歌として
一度はお耳になさった方もたくさんいらっしゃると
思いますが、素敵な曲でお力を頂く曲のように私は感じます
LOOPご企画のフラワーバトン✨こちらもお花💐
やはりお花は歌であろうとお心の癒しなんですね
お花さん…ありがとう🍀
7件のコメント
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投稿を表示3.11(2011年)
13年前のあの金曜日、月一の
お稽古でティーサロンに8人おりました。
お店のママさんが揺れと伴に「皆さんテーブルの下に入って!亅ととっさに滑り込んだのを思い出します。
私は実家の母と犬が気になり、すぐに電話で安否確認!まだ携帯繋がりました。その後はもう繋がりません。まだ寒くてブーツを履いてましたが、駆けるように帰途へ。他の生徒さんが帰宅出来たのは、東急線が動き出した夜11時以降とあとで知りました。
9.11(2011年)
この時私は、米国NY州隣りニュージャージー州(NJ)に一人愛犬と住んでおりました。主人は駐在が終わり3月に都内へ帰任。私が一人NJに残ったのは、長女自身がNY州の高校を卒業したいとの希望からです。この9月にボーディング生になったばかり。娘が寮生活慣れるまでと私は居残りました。
あの日もコミュニティカレッジの帰り、車内のラジオで知りました。帰宅後には日本の主人や両親、友人とずっと電話をもらってぼう然とランデイ(犬)の頭を撫でて、、、
TVの画面では私の想像以上のことが起きてます!
その晩、知り合いのマンハッタン勤務のご家族のことが気がかりで気がかりで、しかし怖くて私からは友人達へ電話が出来ませんでした。
9.11はテロですが、自然災害と同じく、いつ何処にいても私達に起こりうることなんだと思い知りました。
いかに普通の日常が有り難いことと感謝し、手を合わせました。
ナマステ
こもも
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投稿を表示3.11
あの時から13年の月日が流れています。
被災地の一部では、未だにあの時のまま
時が止まっている地域があるそうです。
ループの皆様のご投稿を読んで、それぞれ
皆様もあの日には物語があったのだな、と思いました。
私も子供2人の卒業式が重なり大忙しの日で、やっと終わり近くの商業施設の本屋さんにいた時に地震にあいました。
かなりの揺れで近くにいたお客さんと目で合図をしながら店舗の外に出て、大きな柱に身を寄せて揺れが収まるのを待っていた記憶があります😥
最上階にプールがあって、壁がひび割れて
水が壁から勢いよく漏れて来ていてどれだけの揺れだったのか?本当に怖かったです。。
その後、慌てて飛び出し本を持って出てしまったお客さんたちが本を返しに行くのを見て何故か涙が出て偉い👏と心で拍手‼️
語り始めたらキリがありませんが、東北の
被害を受けた方々とは比べものにならない話です。。
言葉で頑張ってください、と簡単には言えますが、新たな14年目を忘れずに、遠く離れていても心に留め私に出来る事をしたいと思っています。
写真は卒業記念として配られたタオルですが、忘れられないタオルになりました😢
🐰
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投稿を表示直接的な被害を受けていないのに、13年前のあの日の出来事から繋がる記憶はたくさんあります。
被災地の皆々様の想い…言葉が見つかりません。
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投稿を表示一生忘れることは出来ないあの日…
私は仕事中で家族全員バラバラ、最悪なのはアルツハイマーの母と足の悪い父が家にいなかったこと😮
私は両親を探すために職場から二子玉の実家まで歩き、玉タカ本館入口では職員たちが折り畳み椅子を持ちより帰宅難民となった人々を受け入れていた。玉タカのその対応に束の間心が和んだ❣️
アルツハイマーの母は、着信音が鳴っても"携帯電話の音だから出る"という認識がなく、父は難聴で気がつかない。たった一度だけ父の指示で私にかけてきた電話でわかったのは「横浜駅構内のトイレのそばで売店でもらった段ボールを敷いて冷たい風が通り抜けるなか座っている」ということ。交通機関は運休、主要道路も閉鎖…そんな時、たまたま横浜駅そばにいたヘルパーさんが駅構内を探してくれ、両親は、明け方5時過ぎ、無事に帰宅。余震が懸念され、服を着たままベッドに寝かせた。
被災地ではまだ完全復旧していない地域もあるようだ。悲しみの底からそんな容易に這い上がれるものではないけれど、どうか希望を捨てずに健康で過ごしていただきたいと願っています。
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投稿を表示13年ですね。早いような長かったような。
あの頃生まれたお子さまたちも、もう小学校をご卒業。中学生も幼くて覚えていないでしょうから、東日本大震災を知らない世代が成長していく中で、能登の地震も発生してしまいましたし、震災のことを伝え続けることは大切ですね。
あのとき、私は週末の食材を買いに、赤ちゃんだった娘を連れて世田谷区内のお店にいました。急な強い揺れで、その1ヶ月前のニュージーランド地震を思い出し、今いるビルの倒壊と外の危険性を瞬時に比べ、外に出ました。居合わせた方々と自然と手を繋いで、メトロノームのように揺れる電柱に慄き、しゃがみ込んでました。
初めて感じる激しい揺れで、東京が震源地に違いないと思ったら、まさかの東北。
それからのことはいろいろありすぎて夢中でしたが、私のルーツが被災地となり、親族は皆無事でしたが、失ったものも多くありました。
命を失った方々、大切なご家族や家を失った方々などの筆舌に尽くし難い状況にも、心を痛めるだけで幼い子供達を抱えて何もできませんでした。
13という数字に力があるのか、十三回忌を済ませた後の新たな年を迎えた区切りを感じたのか、今年は蓋をしたままの自分の心を解いてあげてもいいのかな、という気持ちになっています。
置き去りになっていた哀しさや苦しさと向き合うことになると思いますが、お花を見ながらゆっくり癒していけたら、と思います。
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投稿を表示ご卒業おめでとうございます㊗️
🎉✨😆✨🎊
孫娘と同い年です🎵
大変な年でしたね…今も被災されていらっしゃる方々…本当に言葉が見つかりません😢
日々楽しく過ごさなければと老体に言い聞かせております😅
本当に歌🎵・花💐癒しになりますね👍
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投稿を表示3.11
東日本大震災から13年…被災された方、心を痛めている方々に寄り添っていたい、忘れないようにと私も努めています。
MNnikotamaさんは娘さんのハッピーなお知らせの日に娘さんがデパートにいらっしゃったんですね。外出先でそれも妊婦さんがと思うと私も不安でしかありません。お腹にいた赤ちゃんが小学校をご卒業とは随分長い年月が経ったのだと思いますね。
私は次男を出産後の育休中で幸いにも実家にいたもので地震の恐怖はありましたが父母と一緒にいたため今思えば最小限の不安で済んだのだと思います。テレビで津波の驚異を目にしたのを覚えています。
職場では帰宅困難者がおり会社に備蓄の毛布や食料で一晩を過ごしたと聞きました。
一人一人に3.11の日の経験からいろいろな思いがあることでしょう。それぞれの経験を子どもたちに伝えて風化しないようにしていきたいですね。