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ティム
2025/07/05 16:35

600年の時をこえて

鶴ヶ城(会津若松城)の歴史はとても古く、葦名直盛(あしななおもり)が黒川の地に東黒川館を置いたことが始まりです。もともと芦名氏は三浦半島(神奈川県)の豪族で、鎌倉時代に会津盆地を所領するようになります。

会津の地固めをしたのち、直盛は田中稲荷神社(会津若松市大町)に参拝し「この広大な会津盆地のどこに城を築くべきか教えてください」と祈願します。翌朝、直盛が館の外に出てみると、降り積もった雪の上に狐の足跡が延々と続いていたのです。「これはもしや神のお告げでは」と思った直盛は、狐の足跡をたどってみます。それは黒川(湯川)の北岸に円をえがいていたそうです。直盛は「これぞ理想の立地」と、さっそく足跡の内側に城を築くのです。

こうして完成した城は黒川城と呼ばれました。

そのため鶴ヶ城城内には稲荷神社があるのです。

 

その後、会津に侵攻した伊達正宗の領土となりますが、この時は豊臣秀吉が伊達政宗に上洛をもとめている最中でした。それを無視した会津侵攻に、秀吉の反感を買うことになります。その後、北条氏の小田原征伐が行われることになり、正宗は小田原にいた秀吉のもとに参上し、服従の意を示しますが、会津城下の興徳寺にて行われた秀吉の奥州仕置により、正宗は岩手山城に移され、会津の地は、織田信長の娘婿である蒲生氏郷(がもううじさと)に与えられます。

 

1593年には、地階を含む七層の天守が建ち、城下町もほぼ完成します。鶴ヶ城と改名いたします。また、「黒川」と呼ばれていた土地を、氏郷の故郷である滋賀県の日野)の森の名をとって「若松」と改めます。

会津漆器をはじめ、商業にも力を入れ、近江から味噌、醤油、酒造などを持ち込みます。会津の形成に大きく寄与します。

 

白虎隊が飯盛山で無残な死を遂げた頃、城下では女性たちが凄絶な戦いを繰り広げていました。

運命の慶応4年8月23日。政府軍が押し寄せた鶴ヶ城城下は、逃げ惑う人々であふれ、大混乱に陥りました。籠城の覚悟で藩士が城に向かう一方、取り残された家族の中には、足手まといにならないように自ら命を絶った者も大勢おり、この日だけで230余人にのぼりました。

新島八重は、城内での負傷者看護や炊事、弾丸の製造のために入城します。城内に入れなかった藩士の妻や母などは、婦女隊を結成し義勇軍として戦いました。

圧倒的な劣勢が伝えられても、城内の女たちがひるむことなく最後まで戦い続けられたのには、照姫の存在がありました。
照姫は、会津藩八代藩主松平容敬(まつだいらかたたか)の養女で、藩主・松平容保(まつだいらかたもり)の姉。美しい容姿に芯が強く教養にあふれ、容保をよく支え、控えめながら藩内でも厚い人望があったのです。
会津戦争では、鶴ヶ城内で六百人余の女性たちを陣頭指揮。負傷者の救護や炊き出しに自らまわりました。
戦況が激しくなると、大奥の一部を病室として提供し、高貴な衣装を裂いて包帯として使わせたといいます。

そんな照姫の勇気ある自己犠牲の姿を見て、女たちは「照姫様のために」を合言葉に戦い続けたのでした。

 

会津戦争最大の悲話として白虎隊のエピソードと同様に語り継がれているのが、西郷頼母(さいごうたのも)の一族21名による自刃です。
西郷頼母は筆頭国家老で、国内情勢を照らし合わせて容保の京都守護職辞退を進言。容保の怒りを買い、家老職を解任されます。その後、戊辰戦争の勃発によって家老職復帰して、新政府への恭順を提案しましたが聞き入れられず、多くの会津藩士は徹底抗戦を主張する中、卑怯者の恭順派とみなされました。


8月23日、頼母は戦場に赴き不在でした。頼母の妻・千恵子は藩内で阻害されている夫の立場を受け止め、入城することなく自邸に留まりました。そして籠城戦の足手まといになることを苦にして、一族もろとも自刃。その中にはわずか幼子や老人も含まれ、凄絶な最期は敵である土佐藩士の涙を誘ったといいます。

次のような辞世の句を遺し、千恵子は懐剣で自らの喉を突いたと伝えられています。
 「なよ竹の 風にまかする身ながらも たわまぬふしは ありとこそきけ」

 

涙が出るような、この句の意味は、「なよ竹のように、風に身をまかせているように見えても、竹には折れない節があるように、女性にも譲れない節義があることを知ってほしい」という強い決意でした。

 

このように、この戦いは、会津の人々に、武士としての誇り、団結力、そして過酷な運命を受け入れる覚悟を刻み込みました。特に鶴ヶ城の戦いは、新政府軍の猛攻に耐え抜いた会津藩士の粘り強さと、籠城戦を支えた女性たちの活躍は後の会津人の人格と品格を形成していくのです。

 

このようなお話は、現在となっては知らないでもいい事です。

知らない方が楽しく観光できるのです。

ただ知ってから行けば、見た景色は600年の時代を超えて、貴方の心に刻まれていくのです。

 

 

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2 件の返信 (新着順)
香子
2025/07/06 10:55

たしか「八重の桜」では西田敏行さんが西郷頼母を演られていたような…。会津はいろんな領主を迎えられてましたよね。お城に入って展示されてるのをみて「おおぅ」と思いました。

ふふ、多分同じフォトスポットですね♬

まるまる
2025/07/05 21:15

飯盛山の回で、西郷頼母の妻子の最期が浮かんでました。会津武家屋敷でその再現をみて以来、忘れられない記憶となっています。
日新館で垣間見られる会津藩の自律的な教育、幕末の悲劇、厳しい気候…
会津地方は古くからの文化と自然の豊かなところですが、彼の地を思い出す時、私はどうしても過酷な歴史や環境への畏敬の念が先立ちます。

今回も味わい深いご投稿ありがとうございました。