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ティム
2025/06/29 16:32

ならぬことはならぬものです

白虎隊は戊辰戦争(ぼしんせんそう)の際に会津藩隊士の子息で組織された軍隊です。

飯盛山へ敗走し、燃え盛る会津を見て自決したことで知られる白虎隊ですが、奇跡的に生き残った隊士がいたことで、後世まで語り継がれることとなりました。

わかりやすく説明いたします。

白虎隊に所属していた隊士は10歳から会津藩校日新館(あいづはんこうにっしんかん)で教育を受けます。日新館では剣術、砲術、水泳や中国古典、天文学などさまざまな学問を学びます。また、厳しい心得を叩き込まれました。

そして自刃の仕方もここで教わったそうです。

会津の子供たちが守るべき厳しい掟であり、日新館に入学する前に学ぶのが「什の掟」と言われるものです。

一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです。

 

さて少し横道にそれます。聞いたことのある方も多いですので簡単に説明します。

1866年3月、薩摩藩と長州藩が薩長同盟を締結します。次第に倒幕の機運が高まり始めていました。そのため徳川慶喜は「大政奉還」を行い、政権を朝廷に返上します。

しかし、新政府側はその後も旧幕府側が政権を掌握していることに反発し、明治天皇が「王政復古の大号令」を発令しました。これにより、幕府は完全に廃止することになり新政府の誕生が宣言されることとなります。

その後、武力解決を望む西郷隆盛からの挑発に耐えかねた旧幕府軍が火蓋を切り、いよいよ戊辰戦争が開戦します。鳥羽・伏見の戦い、江戸城無血開城、東北戦争、会津戦争、五稜郭の戦いを経て戊辰戦争は新政府軍の勝利で終戦いたします。

会津藩は「京都守護職」という京都の治安維持を任されていた藩だったため幕府側との繋がりが強く、藩主である松平容保(まつだいらかたもり)は旧幕府軍として「鳥羽・伏見の戦い」に参加します。この戦いは人数では有利なものの、最新式の武器を扱う新政府軍に劣勢を強いられ、敗北いたします。

大敗したことを受けて、会津藩は軍隊を精神論から戦力に重きをおくフランス式に改革します。

古代中国の四方位を司る神にのっとった四神相応の玄武・朱雀・青龍・白虎の4隊体制を取り、戦力を整えるのです。白虎隊は16〜17歳の隊でしたが人気があり、年齢をさば読みして入隊した隊士もいたそうです。朱雀隊・青龍隊の予備として、総勢約300人で主に城内の警護にあたり、緊急時には戦闘に参加するという役割を与えられ、結成に至るのです。

戊辰戦争が進行すると、会津藩は東北地方の藩と協力して新政府側への恭順の意を示しました。しかし、新政府軍はそれを拒否。そのため、会津藩を含む東北地方の諸藩は「奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)」を結び、新政府軍と戦い続けることとなります。

 

白虎隊も出陣する機会を与えられ本陣と合流して戦います。しかしながら新政府軍の攻撃能力が優っており退却命令が出たため退散することになります。

ようやく新政府軍を振り切り、鶴ヶ城を目指すこととなりますが、多くの兵士と遭遇して無我夢中で応戦して南に位置する飯盛山に逃げます。仲間が撃たれて山頂を目指すのが難しくなったため、中腹を目指すこととなりました。

猪苗代湖から水を引くための用水路である戸ノ口堰洞門(とのくちせきどうもん)を通り、水の中を進んで自刃の地となった所へと辿り着きました。

 

燃えさかる鶴ヶ城の城下町を飯盛山から見ることになるのです。

鶴ヶ城に入って敵と戦うことも考えられましたが、「城に入るのは不可能ではないが、誤って敵に捕まり、捕虜となったら君主や先祖に申し訳ない。潔くここで自刃をし、武士の本分を明らかにするべきだ。」と提案があり、この意見に全員が賛成し、少年たちは自らに刃を突き刺し、自決することとなりました。
 
その後、鶴ヶ城では1ヶ月もの間、籠城戦が繰り広げられました。会津藩は藩士やその家族に城内へ入るように指示していましたが、女性や子供や高齢者などは足手まといになるのではと集団自決する人もいました。

新政府軍に包囲された鶴ヶ城は1ヶ月間砲撃を受け続け、美しい城は痛ましい姿へと変わっていきます。城下では多くの人が亡くなっていく日々が続きました。

そして9月22日に会津藩が降伏宣言をし、会津での戊辰戦争は終結することになります。

犠牲者は数千人にのぼると言われるほど激しく、とても多くのものを失った戦争でした。

歴史は やり直す事ができないものです。あの人がいなければ。。などと思われがちですが、そういう歴史があって、今の会津があるのです。

 

会津人の性格をよく表す言葉に会津の3泣きということがあります。この言葉は転勤属から生まれたようです。

  1. 会津に来たときはその閉鎖的な人間関係に泣く
  2. なじんでくるとその人情の深さに泣く
  3. 去るときは会津人の人情が忘れ難く泣くというものです。

良いところです。



 

 

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4 件の返信 (新着順)
まるまる
2025/06/30 14:41

会津の方、何人かと仕事で関わったことがありますが、まさにこの会津の精神が生きていると感じることが多々ありました。情に厚く、義理堅く、正義の味方。
あと、会津出身の上司から「脱藩者」と聞いたときはびっくりしました。
期待していたのに転勤先から戻らなくなっていた方について表現したようなのですが、武士のような感覚はまだ息づいているのだなと思ったものでした。

栄光と悲劇の会津の歴史を知り、鶴ヶ城を中心に広がる会津盆地に立つと、タイムスリップしたような気持ちになりますね。

香子
2025/06/29 19:29

福島の友人(すでに亡くなりましたが)は、「薩長は好きじゃない」と言っていた事を思い出します。

毎日☺
2025/06/29 19:08

「什の掟」を魂のなかに入れ 学んだ
考え深いものがありますね。
徳川慶喜に振り回された松平容保
誰がどうのとは言えませんが
その時代の背景がありますので。
鶴ヶ城に行ったことあります🏯
裏磐梯🏕️、桧原湖、五色沼
猪苗代etc。
可哀想で飯盛山には
足が向きませんでした

MNnikotama
2025/06/29 18:13

お勉強になりました🙏🙇‍♀️
こんなに詳しく白虎隊関連のお話✨
有り難いです🙏🙏
今に繋がる『会津の3泣き』のお話✨
『ならぬことはならぬもの』
の掟に…なるほど🧐と
どれも…立派な教えのようで
流石と感じますが…
最後の…女性と〜の文面には…💦
現代では〜💦💦😱と感じました
今は生徒さんにも…
「男の子だからもっとforteの音が出るでしょ」などと注意したりしたら…
大学でも上から呼ばれ教師側に指導が…💦入ります〜
そんな時代なんです…ね🙇‍♀️