京を凌ぐ平泉の栄華 ①
栄華の極みであった平泉。
平安時代後期、京都には15万人、平泉に10万人という全国2位の規模を誇ったと言われています。現在の人口は6.600人ですが、昨年の来訪者は153万人となります。
平安時代中期、安倍頼時(阿部氏)という豪族が、岩手県の中央から県南にかけて勢力を広げていました。この力を恐れた朝廷は、武士である源頼義(源氏)に制圧に向かわせます。強大な勢力の安部氏との戦争がおよそ12年間にわたり続けられ、多くの兵士が傷つき、倒れていきました。その頃、秋田で勢力を広げていた豪族、清原武則(清原氏)を味方につけることを思いつきます。清原氏にとっても安部氏は邪魔だったのです。手を組んだ清原氏・源氏はついに安倍氏を滅ぼします。この合戦を「前九年合戦」といいます。源氏も長い戦いで朝廷を空けてしまい、京都に戻されます。
安倍頼時は清原氏に殺され、残された妻子は、生きる為に敵方の清原氏と再婚します。この時の連れ子が藤原清衡(ふじわらのきよひら)です。
連れ子で清原家に入るものの、義理の兄弟3人で跡継ぎ問題が起こり争いになります。源氏が再び朝廷から派遣され清衡軍に加わって大きな戦争に発展します。この合戦を「後三年合戦」といいます。
この戦いは、さまざまな人々を巻き込んだ卑劣な戦いだったそうです。
そうして清衡が勝利して、昔の安倍氏の領土はもちろん、清原氏の領土まで勢力を伸ばし奥州全土を手にします。源氏も手を貸すものの奥州に行きっぱなしで朝廷の仕事が疎かになり今回も京へ戻されます。清衡はその後、江刺から平泉に移るのです。
約100年間にわたる京都を凌ぐ程の絢爛豪華な「平泉」の歴史はここから始まります。奥州藤原氏の誕生です。
できる限り噛み砕いて説明してるため興味のある方は、ぜひ調べてみてください。
秀衡塗しらべてる。。
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投稿を表示平泉といえば中尊寺の金色堂。中学の修学旅行で行きました。
あの時代にここまでの豪華絢爛さ・・・
藤原氏の力の大きさを感じました。
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投稿を表示ティムちゃん‼️
噛み砕いてくれてありがとう😊
平泉にそんな歴史があるとは、、
秀衡塗りのお椀、とても綺麗😍
🐰
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投稿を表示噛み砕き ありがとう😊最高‼️
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投稿を表示フゥ〜ム🤔…
なんだか…難しいですね〜😢🙇♀️🙏
平泉…実はすごい所なんですね✨✨
🙏
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投稿を表示そのあたりの大まかな歴史は大河ドラマの「炎立つ」があります。
やはり金の産出と良馬の飼育が平泉繁栄の一部かなと😊