変わりゆく時代、変わらぬ景色
変わりゆく時代、変わらぬ景色さて平泉駅舎に来ました。今回、長きにわたり平泉について投稿してきました。コメントいただいた方、いいね。をしてくれた方にあらためて御礼いたします。平安時代後期に、奥州藤原氏の3代にわたり繁栄があった土地。そして秀衡を頼って落ち延びてきた源義経が、最期を迎えた土地。松尾芭蕉が平泉を訪ねた際に、「夏草や兵
達谷窟毘沙門堂
達谷窟毘沙門堂達谷窟毘沙門堂(たっこくのいわやびしゃもんどう)にきました。毛越寺からはタクシーで10分程度です。少し前までは路線バスがあったようですが、いまは公共交通機関はないようです。 かつて、達谷窟を住みかとする悪路王を征伐するよう、桓武天皇から命じられた征夷大将軍・坂上田村麻呂は、出陣にあたり京都の清水寺で
世界遺産 毛越寺
世界遺産 毛越寺毛越寺(もうつうじ)は慈覚大師円仁が開山し、二代目藤原基衡(もとひら)から三代目藤原秀衡(ひでひら)の時代に多くの伽藍が造営されました。当時は寺塔が40、僧の宿舎が500と、中尊寺をしのぐほどの規模と華麗さであったといわれています。奥州藤原氏滅亡後、度重なる災禍に遭いすべての建物が焼失しましたが、現
世界遺産 無量光院跡〜観自在王院跡
世界遺産 無量光院跡〜観自在王院跡無量光院跡(むりょうこういんあと)は、宇治平等院の鳳凰堂を模して三代目藤原秀衡が建立した寺院の跡地。一説には、当時は、平等院鳳凰堂を超えていたそうです。奥州藤原氏の栄華の象徴です。現在は、遺跡のほとんどが水田化し、池跡、中島、礎石のみが残っています。建物の中心線は西の金鶏山と結ばれており、その稜線上
京を凌ぐ平泉の栄華 ③
京を凌ぐ平泉の栄華 ③秀衡が中立を保っていた頃、平家を滅ぼした源頼朝から牽制のような書状が送られてきます。秀衡は衝突を避けて対応します。頼朝は、奥州で絶大な力を持つ秀衡をかなり警戒していたようです。その後もたびたび圧力をかけてきます。前回お話した2度にわたる奥州の戦いに加担するものの手に入れられなかった源氏にとってはどう
京を凌ぐ平泉の栄華 ①
京を凌ぐ平泉の栄華 ①栄華の極みであった平泉。平安時代後期、京都には15万人、平泉に10万人という全国2位の規模を誇ったと言われています。現在の人口は6.600人ですが、昨年の来訪者は153万人となります。 平安時代中期、安倍頼時(阿部氏)という豪族が、岩手県の中央から県南にかけて勢力を広げていました。この力を恐れた朝廷
賀茂御祖神社編最終章 〜賀茂社〜
賀茂御祖神社編最終章 〜賀茂社〜〜おさらい〜天上に雷鳴が轟き丹塗りの矢(にぬりのや)が降ってきます。加茂川の上流から流れてきたその矢を、川で身を清めていた玉依媛命(たまよりひめのみこと)が見つけて不思議に思い、持ち帰ります。その矢を床に飾って休むと、矢にこもっていた力によってご懐妊され、立派は男児が生まれます。祖父である賀茂建角身
賀茂御祖神社編⑧ 〜龍穴〜
賀茂御祖神社編⑧ 〜龍穴〜下鴨神社は、龍穴(龍神が住む場所)があるとされています。龍穴には、厄を浄化する効果があり沢山のご利益もあるようです。京都では、他に貴船神社が有名です。神社の周囲にそびえる糺の森(ただすのもり)から底知れぬパワーが宿るのでしょう。 いよいよ下鴨神社もクライマックス。下鴨神社の摂社の一つ、女性の守護神で
賀茂御祖神社編⑦ 〜輪橋と光琳の梅〜
賀茂御祖神社編⑦ 〜輪橋と光琳の梅〜尾形光琳が、このあたりを描いたのが「紅白梅図屏風(国宝)」で最高傑作と言われています。以来、この梅を「光琳の梅」と呼ばれます。奥にある太鼓橋が、輪橋(つりはし)で、立ち入れないように常に注連縄(しめなわ)が張られていて、「神のための橋」であることを示しています。ただ、この輪橋は「渡れはしないものの、
賀茂御祖神社編⑥ 〜御手洗社(みたらししゃ)〜
賀茂御祖神社編⑥ 〜御手洗社(みたらししゃ)〜御手洗社の前の池は「みたらしの池」とよばれ、土用になると池の周辺や川の底から清水が湧きでるため、七不思議にかぞえられています。湧きあがる水泡の姿を団子にかたどりったのが、みたらし団で、ここが発祥となっています。