鹿島神宮 ①
常陸国一ノ宮 鹿島神宮のお話の前に改めて国譲りの神話を整理いたします。
以下は以前「諏訪大社」のタイトルで公開していますが再掲いたします。
出雲の国を平和に治めていた大国主神(おおくにぬし)のもとに、天照大御神(あまてらす)の遣いがやってきます。
突然のことに驚く大国主神でしたが、大事な客人なので接待をします。この接待に気をよくした遣いは気づいたら、その人柄に惹かれ、自分のお遣いを忘れてしまいます。
天照大御神は2人目の遣いをさせますが、この遣いは大国主神の娘と結婚します。2人目からの連絡がなく痺れを切らした天照大御神は、3人目の遣いとして、武甕槌神(たけみかづち)と天鳥船神⭐︎(あめのとりふね)を出雲に向かわせます。
⭐︎古事記では天鳥船神⭐︎(あめのとりふね)で日本書紀では経津主神(ふつぬし)です。
稲佐の浜に降りたった、剛健な武甕槌神は十掬剣(とつかのつるぎ)を抜いて逆に立て、その剣先にあぐらをかいて座ります。大国主神に「この国は我が御子が治めるべきであると天照大御神は仰せられた。それをどう思うか」と訊ねます。大国主神は、自分の前に息子の事代主神(ことしろぬし)に訊ねるよう言います。事代主神はその時、魚を釣りに出かけていたため、天鳥船神が事代主神のところに行き国譲りを迫ります。
これに対して事代主神が「恐れ多いことです。言葉通りこの国を差し上げましょう」と答えると、船をひっくり返し、逆手を打って船の上に青柴垣(あおふしがき)を作ってその中に隠れます。
この釣りをしていた事代主神が後の「えびす神」です。
武甕槌神が「事代主神は承知したが、他に意見を言う子はいるか」と大国主神に訊ねると、大国主神はもう一人の息子の建御名方神(たけみなかた)にも訊くよう言うのです。
そこに建御名方神が現れ、「それならば力競べをしようではないか」と建御雷神の手を掴みます。武甕槌神は手を氷の氷柱に変えて、さらにそれを剣に変化させます。今度は武甕槌神が建御名方神の手を掴み放り投げたので、その圧倒的な強さを前に建御名方神は逃げ出します。
武甕槌神は建御名方神を遠く信州まで追いかけ、建御名方神は諏訪湖で追い詰められます。建御名方神は「恐れ入りました。どうか殺さないでください。この土地以外のほかの場所には行きません」
と誓うのです。
こうして地上の国を天上の国に譲るのです。
常陸国一ノ宮 鹿島神宮は、この三番目の交渉人であり、国譲りを実現させた柱、武甕槌神(たけみかづちのかみ)が御祭神の神社となります。
平安時代に「神宮」の称号で呼ばれていたのは、延喜式神名帳(えんぎしきしんめいちょう)では伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮の3社だけでした。
都から遠く離れた東国の神社が、格式で他の神社と一線を画した「神宮」とされたのは何故なのか。考察していきましょう。
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投稿を表示格式のある神宮✨🙏
平安時代からの所以も又
素晴らしいお伝えなんでしょうね🙏
✨✨
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投稿を表示確かに、平安時代の東国は、都から相当離れたところですよね。更級日記でも、都とのつながりはあってもかなり遠い国だったようですものね。なぜ神宮があるのか、知りたいです!
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投稿を表示わー👏
昔とあるサッカーチームのサポーターしてたので鹿島神宮は良く行きました⚽️
まだ鹿ちゃんに人参あげられるのかしら😊
鹿島神宮→香取神宮でお団子たべるのがお正月の一大イベントでした
なつかしー
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投稿を表示ティムさん、いつも興味深い話題をありがとうございます😊
鹿島神宮、香取神宮、息栖神社の東国三社巡りは氣がよくて好きです✨
続きも楽しみにしています😊
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投稿を表示ティム 様
ご存知のように…
法制史の律令法典そのものは
養老律令で終わります。
律・令の条文を修正する格及び
律・令の施行細則としての式は
律令法の施行期間を通じて単行法令
として随時発令・施行されます。
これらの格・式は
◆三代格式…弘仁格式
貞観格式
延喜格式
としてまとめられています。
どこかで繋がっています。
改めて学びを知ります。
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