難攻不落の名城
真田昌幸が上田城を築き始めたのは、今から172年前のことです。当時の勢力図は、更埴地方までが越後の上杉景勝、佐久郡までが徳川家康が治めてました。家康に臣属していた昌幸は、家康の援助を受けて上田城の築城を始めます。しかし、豊臣秀吉に対して背後の守りを固めるため家康は、小田原北条氏と手を組もうとします。そのため上州沼田領を北条方に譲るように命じられた昌幸は、これを拒絶します。
これにより、徳川と断絶した真田昌幸は、徳川軍の攻撃に備え、次男である幸村を上杉方に人質として差し出し、上杉景勝に上田城築城の援助を求めます。
1585年8月に徳川軍が7,000人の大軍で、上田城を攻撃します。しかし真田昌幸は見事な戦略で、真田軍わずか2,000人でこれを撃退します。これが第一次上田合戦です。この後上田城は一応の完成をみます。上田城は築城の過程で真田昌幸が臣属先を変えたため、徳川からも上杉からも援助を受けたため、わずか2年半で完成します。
その15年後、1600年に関ケ原の戦いがはじまります。秀吉没後の覇権を、徳川家康と石田三成が争ったこの戦いで、真田昌幸と次男の幸村は石田三成方に、長男の真田信之は徳川方に別れて戦うことになります。
関ケ原の戦いは石田三成の敗北になりますが、上田城に立てこもった真田昌幸、真田幸村は徳川秀忠軍3万8000人に対して、わずか2500人で戦います。これが第二次上田合戦です。
この戦いで徳川秀忠軍は、7日間上田に釘づけとなり関ケ原の戦いに間に合わず、家康の激怒をかってしまいます。
この第一次・第二次上田合戦により上田城は難攻不落の名城とされる所以です。
戦いに敗れた真田昌幸と真田幸村は、真田信之が徳川方であったため、九度山(和歌山県)に幽閉され助かります。
そして上田城は一度破壊されます。堀を埋めて、塀を壊し、櫓(やぐら)などの建物も壊されて廃城となります。
その後上田領を家康から与えられた長男の真田信之が引き継ぐことになります。
その後真田信之が松代へ領地替えとなり、仙石忠政が小諸から新領主として上田に入ります。
幕府の許可を得て1626年より上田城の復興に取り掛かります。
忠政は、埋め立てられていた堀を再び堀り上げて石垣を積み、櫓を再建します。
そして、本丸の土居や石垣の上に櫓と塀ができて明治維新まで続く上田城の姿が復興されます。
その後1706年に上田城主は、仙石氏から松平氏へと交代し、明治維新までの160年余の間、松平氏が治めます。
明治維新後、上田城は陸軍の東京鎮台第二分営となりますが、この廃止に併い、上田城は本丸・二の丸の土地・建物・樹木まで一切の払い下げが許可され想像以上に廉価で売却されるのです。
かつて本丸には7基の櫓があり、そのなかで西櫓、南櫓、北櫓の3基が現存しています。特に、東虎口櫓門を間にはさむ南櫓と北櫓は、上田城のシンボルのような存在です。
難攻不落の名城を紹介していきます。
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投稿を表示難攻不落の名城✨✨
すごい👍ですね〜👏👏👍
勉強になります🙏
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投稿を表示真田三代記 六文銭✨
この旗🚩に憧れあります✨
一時期 歴史や🏯お城にFanも
「レキジョ」流行りませんでしたか。
栄枯盛衰 その時代に思い馳せます
兵どもが夢の跡…
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投稿を表示上田の町に入るとそこは真田一色。信号にも六文銭です。🚥🚦