鶴岡八幡宮 ③ 舞殿(下拝殿)
静御前は、京の白拍子。
白拍子は歌いながら男装で舞う女性のことです。
後白河法皇は、神泉苑に白拍子を100人を呼んで「雨乞いの舞」を舞わせました。
99人までが舞っても雨は降りませんでしたが、100人目の静が舞うと3日間雨が降り続いたのだといいます。
このとき、舞を見ていた源義経に気に入られ側室となります。
鎌倉幕府を開いた源頼朝は、平家追討に武勲のあった弟義経と不仲になり、義経追討の兵をあげます。義経は京の白拍子(静)とともに、武蔵坊弁慶と、わずかな手兵をつれて吉野山に逃れました。
頼朝側の追手が迫る中、義経一行は東国に向うことにして、静には金銀を持たせ、供の者をつけて京都へ送らせました。
ところが、途中で供の者たちに金銀を奪われ、山の中に置き去りにされた静は捕らえられてしまいます。その後、鎌倉の頼朝のもとへ送られ、義経の行方を厳しく問われますが、静は答えません。
頼朝とその妻政子は、舞いの妙手として京で名高い白拍子(静)の舞いを見たいと、静に鶴岡八幡宮での舞いを求めます。病気を理由にその申し出を断っていた静も、熱心な求めに観念し、ついに舞の舞台に上ります。その舞台で静はこのように詠い、舞いました。
〈しづやしづ しづのをだまきくりかえし 昔を今に なすよしもがな〉
解釈:「静、静」と繰り返し私の名を呼んだあの人が輝かしかった頃にまた戻りたい。
その艶やかな美しさは、観ていた幕府の者たちを感動させましたが、頼朝は「自分に逆らう義経を恋い慕う歌を詠い舞うとは不届きだ」と激しく怒ります。それを見た政子は、かつて自分が頼朝を思い慕った日々の女としての苦しさ、悲しさを教え諭して、頼朝の怒りをなだめます。
処分を免れた静は、市内の片隅に住居を与えられ、お腹に宿していた義経の子である男の子を産みましたが、「男子を生かしておいては将来に禍根を残す」と、幕府はその子を取り上げて由比ガ浜の海に沈めてしまいます。傷心の静は京に帰されますが、それ以来静の消息は途絶えました。
静御前のこの悲しい物語は、以後も人々の胸に残り、語りつがれ、謡曲や浄瑠璃にも綴られ、現代に残されています。
静御前が舞ったときにはまだ舞殿が無かった時なので、正解は若宮の回廊で舞ったということになりますが、回廊は今の舞殿の位置にあります。

建物は違えど、この辺りで舞ったようです。
静御前を思い、舞殿を訪れてみると今まで見過ごしていたものが見えてくるかもしれません。