小布施という街
小布施という街いかがでしたか?少し違う角度から見た小布施は。市村家12代当主市村三九郎(高井鴻山)から、17代当主の市村次夫(現小布施堂代表)までの小布施を市村家を通してみた小布施。全世界から訪日外国人がこの小さな街に訪れる街になったのにはきっと理由があります。 小布施人は、「よそ者」を歓待し、変化を受け入れて新
八方睨み鳳凰図(岩松院)
八方睨み鳳凰図(岩松院)葛飾北斎88歳から89歳にかけての作品といわれています。北斎は83歳に鴻山の誘いで初めて小布施にきて、計4回訪れました。最後の4回目の滞在約1年をかけて岩松院本堂の天井に鳳凰図を描きました。翌年江戸に戻り、90歳で亡くなっています。大きさは畳21枚分。中国より輸入した鉱石を用いた岩絵具は150両だっ
葛飾北斎と高井鴻山(たかいこうざん)
葛飾北斎と高井鴻山(たかいこうざん)色々と寄り道をしましたが、今回の信州長野路の目的地は岩松院です。岩松院の話をする前に、葛飾北斎と高井鴻山(市村三九郎)の関係をお話いたします。鴻山は江戸に居た頃、北斎の門下生でした。師弟の合作のほか、北斎の手本を模写したものもあります。鴻山の絵には、そこかしこに北斎の名残が色濃く感じられます。北斎が
新しい魅力創出のために
新しい魅力創出のために小布施の街づくりの核を担ってきた「寄り付き料理 蔵部(くらぶ)」江戸時代から酒蔵で働く蔵人たちが寄り合い、冬の期間に寝泊まりをしながら酒を造り、休息し、食事をする「寄り付き場」が由来です。釜で炊く白米ごはん、信州産の肉や魚など素材のもつ旨みを最大に引き出した料理が特徴です。ここも株式会社小布施堂市村
小布施堂
小布施堂もともとの小布施堂は塩問屋、茶問屋、菜種油、酒造業、薬屋などを手広く営む商家で、家業の中核が江戸中期1755年に創業された桝一市村酒造場でした。その桝一が明治後期に栗菓子製造に乗り出します。当時の缶詰技術と酒造場としての工場生産方式を導入して銘菓「栗かのこ」を作ります。これが小布施堂の前身となります
桝一市村酒造場
桝一市村酒造場桝一市村酒造場・通称ますいち。前回お話した市村家が経営する酒造です。創業は江戸時代1755年より260年以上に渡り、現在でも木桶仕込みを行っております。全てにおいて手作業中心、一般米は使用せず、全量酒米仕込みにこだわります。ますいち12代目当主の市村三九郎が、その名も聞いた事がある方も多い高井鴻山(
ここまで偉大な街にしたもの
ここまで偉大な街にしたもの小布施は、人口は 11,400 人で長野県下で最も小さい町です。その特徴ある風土を活かし、先覚の遺した文化遺産を継承、発展させて「北斎と栗の町」「歴史と文化の 町」として景観を大切にしたまちづくりを行った 結果、現在では年間約 120 万人の人が訪れる町となりました。小布施を語る上で市村家という存在
小布施
小布施今回の長野訪問の本命は、小布施です。長野駅から長野電鉄で約30分の小布施は人気の観光地で、風情ある町並みもさることながら、何より栗菓子で知られます。小布施堂や桜井甘精堂と言えば、ご存じの方も多いかもしれません。生産量は国内の僅か3.6%でしかないのに全国区で「栗の町」として知られるのには理由がありま
長野へ
長野へ次の旅路は信州長野にしました!いまのタイミングで再訪したいところがあり、長野まで行きます。それでは、行ってみましょう。
秋色を求めて🚶
秋色を求めて🚶フラワーバトンプロジェクをきっかけに季節と植物を意識するように💡どうしても〈秋🍁〉を体感したくて、ちょっと遠出してきました(*^^*)