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星野リゾート「界 玉造」
星野リゾート「界 玉造」 日本最古の湯のひとつとも言われている玉造温泉。美肌の湯として全国にその名を馳せています。古代から神々が集い、出雲風土記や枕草子にも謳われる神の湯は、潤い成分を多く含んだ化粧水のような泉質が特徴だそうです。出雲大社をイメージした懐石料理今回は「界 玉造」に宿泊しました。太鼓橋や日本庭園など、趣ある館内
出雲大社の御本殿
出雲大社の御本殿 拝殿の後方に回ると玉垣(たまがき)に囲まれた御本殿の大屋根があります。御本殿前に立つ八足門(やつあしもん)から御本殿を望みながら参拝します。大国主大神が御鎮座されている御内殿(御神座)がありますが、なぜか大国主大神は正面を向いてません。西側の稲佐の浜方面を向いているのです。御本殿内の御神座は実は正面
出雲大社の拝殿
出雲大社の拝殿 四の鳥居をくぐると正面に拝殿があります。まずここでお参りをします。現在の拝殿は1963年に新築され、大社造と切妻造の折衷様式で戦後最大の木造神社建築といわれています。しめ縄がありますが、これはよくメディアで紹介される大きなしめ縄ではありませんが、とても大きいです。出雲大社のしめ縄には、ご祭神である大
ムスビの御神像
ムスビの御神像 「ムスビの御神像」は、出雲大社の銅鳥居の手前右側に位置するブロンズ像で、1986年に寄贈されました。大国主大神(おおくにぬしのみこと)がまだ神様になる前の修行時代の出来事を描いています。ある日、大国主大神の前に、日本海の荒波を越えて幸魂(さきみたま)と奇魂(くしみたま)という魂が現れました。この幸魂
国譲りのお話
国譲りのお話 出雲大社建立のきっかけとなる出来事「国譲り」という神話からお話します。このお話には、2つの歴史書があります。古事記と出雲国風土記です。古事記は大和朝廷が編集、出雲国風土記は古事記の20年後に出雲国の国庁が編集しています。 古事記では、出雲の国を平和に治めていた大国主命(オオクニヌシノミコト
珍しい光景
珍しい光景 雲の中の気流が乱れており、避けるように低空で飛行してるためこのような角度で富士山を撮影できました。機長のアナウンスによるととても珍しい光景だそうです。関東は晴れなんですが、行き先の山陰地方は雨の為かもしれません。目的地が日本海側なので座席は左手側に富士山が見えます。ちなみに大阪方面の場合は右側に富士
一条恵観山荘
一条恵観山荘 一条恵観山荘は、江戸時代初期、後陽成天皇の皇子で摂政・関白を務めた一条恵観が京都西賀茂に造営した別邸の一部を昭和時代に移築したものです。建築家である堀口捨己が担当し、ホテルニューオータニや赤坂迎賓館の日本庭園などで有名な造園家・岩城亘太郎が庭園が手掛けました。しばらくは茶道宗偏流家元の茶道会館として
鎌倉屈指の和菓子
鎌倉屈指の和菓子 鎌倉一の和菓子屋との呼び声も高い「美鈴」。若宮大路の東側を並行にはしる小町大路から一本路地を入った場所のさらに奥まったところにあります。月替わりや季節の和菓子は全て職人による手作りです。基本的に注文したお菓子を女将から受け取るというスタイルなので多くの和菓子店にあるようなショーケースがありません。運
つわものどもが夢の跡
つわものどもが夢の跡 永福寺跡(ようふくじあと)は、源頼朝が建立した寺院の跡です。源義経、藤原泰衡など、頼朝の奥州攻めで亡くなった武将たちの鎮魂のため、平泉の中尊寺二階大堂を模して建立され、二階堂・薬師堂・阿弥陀堂の三堂が完成しました。奥州合戦で頼朝はこの二階大堂「大長寿院」を見て感嘆します。永福寺建立の経緯は「吾妻鏡」
紅天井
紅天井 護良親王は 鎌倉幕府打倒の立役者として活躍し その功績により1333年に 征夷大将軍に任じられました。しかし足利尊氏との対立から 鎌倉二階堂の東光寺に幽閉の身となり ます。北条時行が鎌倉を攻めた 中先代の乱で 鎌倉から敗走する 足利直義により暗殺され 、28歳の若さで最期を迎えました。※前回の杉本城