達谷窟毘沙門堂
達谷窟毘沙門堂達谷窟毘沙門堂(たっこくのいわやびしゃもんどう)にきました。毛越寺からはタクシーで10分程度です。少し前までは路線バスがあったようですが、いまは公共交通機関はないようです。 かつて、達谷窟を住みかとする悪路王を征伐するよう、桓武天皇から命じられた征夷大将軍・坂上田村麻呂は、出陣にあたり京都の清水寺で
世界遺産 毛越寺
世界遺産 毛越寺毛越寺(もうつうじ)は慈覚大師円仁が開山し、二代目藤原基衡(もとひら)から三代目藤原秀衡(ひでひら)の時代に多くの伽藍が造営されました。当時は寺塔が40、僧の宿舎が500と、中尊寺をしのぐほどの規模と華麗さであったといわれています。奥州藤原氏滅亡後、度重なる災禍に遭いすべての建物が焼失しましたが、現
世界遺産 無量光院跡〜観自在王院跡
世界遺産 無量光院跡〜観自在王院跡無量光院跡(むりょうこういんあと)は、宇治平等院の鳳凰堂を模して三代目藤原秀衡が建立した寺院の跡地。一説には、当時は、平等院鳳凰堂を超えていたそうです。奥州藤原氏の栄華の象徴です。現在は、遺跡のほとんどが水田化し、池跡、中島、礎石のみが残っています。建物の中心線は西の金鶏山と結ばれており、その稜線上
中尊寺 〜能楽殿〜
中尊寺 〜能楽殿〜白山神社は中尊寺鎮守の一つで、境内の北方にあり、能楽殿があります。この能舞台は旧伊達藩によって再建・寄進されたもので、当初は鏡板の松は描かれませんでしたが、その後1947年に能画家の松野奏風により描かれました。橋掛り、楽屋などを完備した構成の近世能舞台遺構としては東日本で唯一とされ、国の重要文化財に
中尊寺〜金色堂〜
中尊寺〜金色堂〜金色堂は、中尊寺創建当初の姿を現在に伝える唯一の建造物です。数ある中尊寺の堂塔の中でもとりわけ意匠が凝らされ、極楽浄土の有様を具体的に表現しようとして当時の工芸技術が集約された御堂です。公式HPより堂の内外に全面金箔を押した「皆金色」の阿弥陀堂です。須弥壇(しゅみだん)の上にご本尊である阿弥陀如来、
中尊寺 〜峯薬師堂〜
中尊寺 〜峯薬師堂〜中尊寺の本堂にある釈迦如来坐像の両側には、不滅の法灯が立っています。 毎朝、この不滅の法灯から祭壇にあるロウソクに火が灯されます。比叡山にある日本の天台宗総本山、延暦寺の元火が1958年に中尊寺に分燈されたものです。中尊寺には、たくさんのお堂があります。峯薬師堂もそのひとつで、祀られている薬師如来像
中尊寺 〜本堂〜
中尊寺 〜本堂〜中尊寺には様々な堂塔が境内に建ち並び、当時の規模は寺塔が40、僧の宿舎が300におよんだといいます。入口から続く、月見坂のかなり急な坂を上りきると道は平らになり、右手に眺望が開けます。東物見台です。表参道沿いには諸堂が点在しますが、ほとんどが江戸時代中期以降に再建・移築されたものです。最初に弁慶堂が
中尊寺 〜月見坂〜
中尊寺 〜月見坂〜東北地方で続いた前九年・後三年合戦で父や妻子を失い、骨肉の争いを余儀なくされた藤原清衡(きよひら)が、この戦いで亡くなった生きとし生けるものの(人間と動物の区別もなく)霊を敵・味方の別なく慰めたい。という願いから中尊寺を建立いたします。「みちのく」といわれ辺境とされた東北地方に、仏国土、仏の教えによ
行くぜ。東北。
行くぜ。東北。世界で最も受賞が困難なデザイン・広告賞といわれる英国に本部を置く非営利団体D&AD(British Design & Art Direction)でアジアで初の受賞となった「行くぜ、東北。」というコピー。秀逸なキャッチコピーとは「いいな」と思うだけではなく、それを見て実際に行動するパ
京を凌ぐ平泉の栄華 ③
京を凌ぐ平泉の栄華 ③秀衡が中立を保っていた頃、平家を滅ぼした源頼朝から牽制のような書状が送られてきます。秀衡は衝突を避けて対応します。頼朝は、奥州で絶大な力を持つ秀衡をかなり警戒していたようです。その後もたびたび圧力をかけてきます。前回お話した2度にわたる奥州の戦いに加担するものの手に入れられなかった源氏にとってはどう