徽軫灯籠(ことじとうろう)
徽軫灯籠(ことじとうろう)兼六園のシンボルとして知られる2本脚の灯籠、徽軫灯籠(ことじとうろう)といいます。水面を照らすために使われてい雪見灯籠が変化したもので、形が楽器の琴の糸を支え、音を調整する琴柱(ことじ)に似ていることからその名がついたといわれています。2つの脚は元々同じ長さでしたが、折れてしまい、現在は石の上に片脚
雁行橋(がんこうばし)
雁行橋(がんこうばし)11枚の石を使用してつくられた雁行橋(がんこうばし)。雁が空に向かって列をなして飛んでいくように見えることから雁行橋と呼ばれています。雁行橋に使われている赤戸室石(あかとむろいし)は加賀藩が採掘を独占していた門外不出の石なんです。金沢城や兼六園では灯籠や橋、石垣などに贅沢に使われています。 現在は
曲水
曲水曲水は兼六園内にある水路です。兼六園内の高低差を利用して園内を流れていきます。その後は園内最大の霞が池へ流れていき、その後は金沢城へと流れていくのです。もともとは金沢城の防火用水を確保するためなどに設置した用水で、兼六園から約10km離れた上辰巳町から引いています。今も昔も変わらず園内に水を運んで、
はじまりの場所
はじまりの場所園内で最も古い時代につくられたといわれる瓢池(ひさごいけ)です。兼六園はこの辺りから作られました。池の中程がくびれて瓢箪(ひょうたん)のような形をしていることからこの名前がつけられました。中央に建つ海石塔(かいせきとう)は兼六園ならではのものです。瓢池は池の周囲をひとまわりすると、場所によって同じ池
兼六園
兼六園洛陽名園記という名園を紹介する中国の書物で、「庭園は優れた6つの景観を兼ね備えることはできないが、湖園という庭園だけは、この6つを兼ね備えている」といった記述があり、兼六園も湖園に見劣らず完璧であったためその名がつけられました。 宏大(こうだい)幽邃(ゆうすい)人力(じんりょく)蒼古(そうこ)水泉(
不可能を可能にした庭園
不可能を可能にした庭園もう少し金沢を紹介させてください。5代藩主、前田綱紀(つなのり)が金沢城に面している傾斜地に蓮池御殿(れんちごてん)という別荘を建てて、その周辺を庭園としたのが始まりです。いまのような庭園になったのは幕末で、明治維新の後、金沢市民に一般開放され、多くの人たちが訪れるようになりました。特別名勝に格上げ
石川門へ
石川門へいよいよ石川門です。石川郡の方を向いていたと言われることからその名がついたと言われる石川門は金沢城跡の東に位置する重要文化財です。金沢城には海鼠壁(なまこ壁)が至るところで使われています。壁塗りの様式のひとつで、壁面に平瓦を並べて貼り、瓦の目地に漆喰をかまぼこ型に盛り付けて塗る工法のことです。いざと
玉泉院丸庭園
玉泉院丸庭園兼六園とは趣が異なり、池と石垣によって独創的な景観を創り出した「玉泉院丸庭園」です。池泉回遊式の大名庭園ですり鉢状に造園されているため、庭園を立体的に楽しめます。もともとは、2代目加賀藩主前田利長の正室だった玉泉院の屋敷があった場所。織田信長の四女永姫(えいひめ)のことで、利長の死後、玉泉院と号しま
偉大な橋爪門
偉大な橋爪門橋爪門は二の丸の正門として、最も格式の高い門で、高麗門形式の一の門、石垣と二重堀で囲まれた枡形、櫓門の二の門からなります。現存する「石川門」、復元された「河北門」と共に「金沢城三御門」のひとつです。また橋爪門をはじめ金沢城の屋根には、鉛瓦が使われています。名城の姿を壮美にするためだそうですが、今は金
圧巻の景色
圧巻の景色三の丸広場は、明治以降に建てられた木造の城郭建築物としては、全国で最大規模のものだといわれています。復元のシンボルとなっているのが菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓となります。五十間長屋の両脇にある菱櫓と橋爪門続櫓を含めると100m以上になり、圧巻の景色です。河北門をはじめ興味深いのは漆喰(しっくい)の白