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四寺廻廊(しじかいろう)
四寺廻廊(しじかいろう) 風景豊かな巡礼の地に築かれた松島の瑞巌寺、山寺の立石寺、平泉の中尊寺と毛越寺。この四つの聖地巡礼を「四寺廻廊」と言います。四寺を開いたのは、慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)は、日本を代表する宗教者です。世界三大旅行記のひとつ入唐求法巡礼行記の著者です。比叡山延暦寺の最澄の弟子で最後の遣唐使です。
国宝 瑞巌寺(ずいがんじ)
国宝 瑞巌寺(ずいがんじ) 瑞巌寺は正式名称を「松島青龍山瑞巌円福禅寺」といいます。禅宗の寺院です。少しややこしいのですが、もともとは、慈覚大師円仁によって開創された天台宗延福寺でしたが、鎌倉時代北条時頼が臨済宗建長寺派への改宗を行い、寺名も円福寺と改めました。その後、伊達政宗が領民の精神的拠り所とするため盛んに神社仏閣の造営
三処奇観
三処奇観 江戸時代初期に林春斎が記した「日本国事跡考」では、安芸の宮島(厳島)、丹後の天橋立、陸前の松島が「三処奇観」(卓越した三つの景観)と記されており、これが「日本三景」の由来とされています。 松島は先人たちが憧れ、数々の歌枕にも詠まれました。【武蔵野の月の若生えや松島種】「武蔵野の月」は見馴
もののけ 京都
もののけ 京都 現代美術の村上隆の大規模な個展が、開館90周年を迎える京都市京セラ美術館で開催しています。村上隆の展覧会は国内で8年ぶり、東京以外では、初めての大規模展となり、なんと京都以外では開催しないのです。江戸時代に京都を中心に活躍した絵師たちの代表作を日本画を専攻していた村上隆が独自に解釈、再構築した新作や
杜の都
杜の都 今から約400年前に伊達政宗は、家臣たちに屋敷内には飢餓に備えて栗・梅・柿などの実のなる木や竹を植え、隣との境に杉を植えるように奨めました。こうしてできた屋敷林、広瀬川や青葉山の緑が一体となって仙台はたちまち全体が緑に包まれていきました。杜の都と言われた由縁です。
変わりゆく時代、変わらぬ景色
変わりゆく時代、変わらぬ景色 さて平泉駅舎に来ました。今回、長きにわたり平泉について投稿してきました。コメントいただいた方、いいね。をしてくれた方にあらためて御礼いたします。平安時代後期に、奥州藤原氏の3代にわたり繁栄があった土地。そして秀衡を頼って落ち延びてきた源義経が、最期を迎えた土地。松尾芭蕉が平泉を訪ねた際に、「夏草や兵
達谷窟毘沙門堂
達谷窟毘沙門堂 達谷窟毘沙門堂(たっこくのいわやびしゃもんどう)にきました。毛越寺からはタクシーで10分程度です。少し前までは路線バスがあったようですが、いまは公共交通機関はないようです。 かつて、達谷窟を住みかとする悪路王を征伐するよう、桓武天皇から命じられた征夷大将軍・坂上田村麻呂は、出陣にあたり京都
世界遺産 毛越寺
世界遺産 毛越寺 毛越寺(もうつうじ)は慈覚大師円仁が開山し、二代目藤原基衡(もとひら)から三代目藤原秀衡(ひでひら)の時代に多くの伽藍が造営されました。当時は寺塔が40、僧の宿舎が500と、中尊寺をしのぐほどの規模と華麗さであったといわれています。奥州藤原氏滅亡後、度重なる災禍に遭いすべての建物が焼失しましたが、現
世界遺産 無量光院跡〜観自在王院跡
世界遺産 無量光院跡〜観自在王院跡 無量光院跡(むりょうこういんあと)は、宇治平等院の鳳凰堂を模して三代目藤原秀衡が建立した寺院の跡地。一説には、当時は、平等院鳳凰堂を超えていたそうです。奥州藤原氏の栄華の象徴です。現在は、遺跡のほとんどが水田化し、池跡、中島、礎石のみが残っています。建物の中心線は西の金鶏山と結ばれており、その稜線上
中尊寺 〜能楽殿〜
中尊寺 〜能楽殿〜 白山神社は中尊寺鎮守の一つで、境内の北方にあり、能楽殿があります。この能舞台は旧伊達藩によって再建・寄進されたもので、当初は鏡板の松は描かれませんでしたが、その後1947年に能画家の松野奏風により描かれました。橋掛り、楽屋などを完備した構成の近世能舞台遺構としては東日本で唯一とされ、国の重要文化財に